インターネットすやすや

嘘ときどき現実、見方により法螺話となるでしょう

毒と定置網

またずいぶん時間が経ってしまった。書きたいことは山ほどある気もあんまりない気もする。

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最近、悪意に引きずられて意地悪くなることが立て続けにあって、ダメだダメだ、と頭を振り払った。

インターネットの海にはそこここに定置網があって、そこを通ると絶対に毒が塗られた縄に足を絡め取られることがわかっているのに、スリルを求めてつい泳ぎに行ってしまう。台風の夜に海を見に行く人現象。傷だらけの足を舐める快楽。平和だから。

幸か不幸か、わたしは悪意に異常に強いので、相当強く縄が皮膚に食い込んでも焦らない。もがくとますます傷つくことがわかってるので、あ〜〜こういう感じだったわ〜〜と痛みを味わって、波でうまいこと縄が離れたタイミングでふわっと抜ける。

しかし今回はちょっと負けそうになって危うかった。ちょっと長時間いすぎた。周りの人に早く帰ってこいと言われたので抜け出せた。持つべきものは趣味の悪い趣味を許容してくれる程度に趣味のいい友達だ。

しかし冷静に考えて、悪意になんて負けていられないし、そんなちょっとした悪意よりももっとイカしたものがこの世にはあふれている。私は定置網の代わりに沖に出て餌をまく。遠いどこかで新しい生き物がなんとか育てばいいなって思う。食べるなら自分が育てたものをおいしく食べたいなって思う。

永遠の退屈

自分の思想の根幹にあってずっと頭から離れなくて否応なく惹かれてしまうもの、「退屈」な気がしてきた。

人生は根本的に退屈だけど、だからと言ってごちゃごちゃ言ってても仕方ないだろ、なんとか騙し騙しやっていこうぜ、っていうのがずっとある。

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フィクションの世界でもそういうものが好きだな、振り返れば。宮崎駿の「この世は生きるに値する」は本当に本当に好きな言葉だし何度も励まされているけど、それと「この世は退屈」はわたしの中では両立する。

 

「ラ・ラ・ランド」は退屈な日常から出発する映画で、夢が叶ったところで世界は変わらないのがすごくよかった。また新しい退屈がはじまる。それは永遠に続く。違う一瞬の煌めきで生き延びていくしかない。

今ならば

ずっと書きたかったものが書けるかもしれない。

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という気持ちがむくむくと生まれてきた。

ずっと頭のどこかにあった。どこかでいつか言葉にしなくちゃいけなかったんだけど、多分今だと思う。

 

何年か前の、もっというと学生時代のブログを読むとおもしろい。今の自分ならそんな書き方しないなという表現もあるし、荒削りだけどエネルギーがある。昔は良かったとかじゃなくて、変化の話だ。

 

週の真ん中にぽっかり休日があるとなんだか手持ち無沙汰でいい。あんまりテレビも見ずに(自分としては珍しい)せせこましいことを黙々としていた。

朝からホットケーキを焼いて、りんごを炊いて、お風呂の掃除をして、スーパーで買い物をして、白菜をたくさん使って鍋を作った。

この家から行けるスーパーはいくつかあるけど、自転車で坂をくだった先にあるお店がいちばん好き。行くと料理したくなる。野菜や果物やお肉やお刺身の並び方が自分の気分とあっている。

白菜の1/4が128円でうれしい。高いタイミングだと300円くらいするのでそれだけで幸せになった。

これから映画を見に行く。いい休日だな〜〜。

 

毎日小さい決意を重ねていくのだ。今日も明日も書かなくては。

人生最高の夏

人生最高の夏が終わって秋が始まってずいぶん経ってしまった。本当はもっと早く、というか頻度高く書こうと思っていたのに。

秋の入口のある日、待ち合わせの時間より少し前に着いてしまったので青山ブックセンターでふわふわと時間を潰していた。仲のいい人と表参道で待ち合わせするのか結構好きだ。定番のランドマークがあんまりないから、その日の気分で落ち合う場所が変わる。海外文学の平棚に積まれた本を1つずつ眺めていて、クレスト・ブックスの何かを読みたくなった。幾人の人の手で練り上げられた文章に触れたい。

ジュンパ・ラヒリは「停電の夜に」で出会ったときから特別な作家だった。もちろん訳がきれいなのもあるけど、彼女が迷い込んでいる螺旋を、見たい景色を、私はなんだかとても近しくあたたかく感じる。

ローマを選ぶ。子どもの頃からわたしを魅了し、すぐに虜にしてしまった町だ。2003年に初めて訪れたときに心を奪われ、相性がいいと感じた。前から知っている街のような気がした。2,3日過ごしただけで、自分がここに住む運命なのだとわかった。

自分を表現する別の言い回しを見つけると、エクスタシーのようなものを感じる。知らない言葉は目もくらむような実りの多い深淵を象徴している。その深淵にはわたしが見逃しているすべてのもの、すべての可能性が含まれている。

ラヒリは、両親が家の中で話す「母なる言葉」ベンガル語と、合州国で育ち学び思考の核にした「継母の言葉」英語に続いて、3つめの世界としてイタリア語を選ぶ。自分の手で。ローマに移住し、イタリア語だけを読み、イタリア語で物語を紡いで自らを語り始める。

亡命、という言い方をしている。どこまでいっても何でもない、からこの人の世界は優しいなと思う。決めつけない。ゴールがない。

わたしは日本語しか術を持たないし、むしろ外国語に対していろいろなレイヤーで恐怖があるんだけど、それは自分の意志に関わらずバイリンガルにならざるを得なかったラヒリの言っていること、していることと根っこは同じで、発露が逆かもしれないという気がした。若くして高名な作家になった彼女が、ここへきてこんなにももがいて苦しんで格闘しているんだから、わたしも苦しんでみたら新しい地平が見えるのかもしれない。湖を渡れるのかもしれない。

長過ぎる夏休みが終わって秋が来て働き始めた。今のところはだいたい楽しい。新しいことばかりが起こるのはそれなりに面白い。

何より、新しい扉は自分で選んだのだ。開いた先を歩いていくのはやりがいがある。転換点なんてもはや自分で作らないと生まれないから。

べつの言葉で (新潮クレスト・ブックス)

べつの言葉で (新潮クレスト・ブックス)

あんたがたどこさ

5日間九州を旅行していた。

福岡空港に降り立って、熊本に入って、杖立温泉でのんびりして、阿蘇を走って、熊本市内をぶらぶらして、九州新幹線で博多にワープして友達と合流して、佐賀・唐津に繰り出してさんざん遊びまくって、また博多で死ぬほど遊んだ。初めての場所ばかりで楽しかった。

九州の温泉行きたいなあ、と思ってとりあえず予定をあけて宿を取った。唐津でこの夏やってたおそ松さんのイベントにかこつけて、佐賀出身の友人に、一緒に佐賀いこうよ~帰省についてくよ~と噛み付いた(やさしい彼女は一緒に来てくれたけど結局実家には戻らなかった)(そんなに簡単に移動できなかった)(申し訳なさすぎる!)。

菊池風磨くんに影響されて、今回の旅行のテーマの1つは「自問自答」にしようという気持ちでいた……のは事実だけど、いざ書くとこの単語、恥ずかしすぎるな。特に何か大きな目的があるわけでも、見たいものがあるわけでもなく、とにかく知らない場所に行ってみたかったのだった。

杖立温泉は、いい意味で何もすることがなくて本当にいいところだった。1人で旅行していると考える時間がたくさんある。自問自答した結果、まぁいろいろあったけどだいたい人生うまくいってていい感じじゃない?って結論になった。自分のこの無駄なポジティブさっていうか、後先考えない楽天的な思考の源泉て、よかった!神様に愛されてる!って次元の自己肯定感なんだな~って、川にかかった煤けた橋の上からキラキラと輝く水と光をぼんやり眺めて思った。誰かに何か言われたとか何かが成功したとかじゃなくて、なんかもっと、ずっと頭上にある。

多分本来これは宗教の領域なのだろう。わたしの神様には名前がない。神様がいるのはいいんだけど、でもそういう大雑把で根拠の無い確信が人を傷つけることはままあるし、そういうことをもっと本当は考えなくてはならないのだ。と思う。


長い夏が終わる。さみしいなー。幸福な夏休みだった。
生きている限り新しい夏はやってきますからね。楽しかった時間をよく日に干して瓶につめて窓辺に並べて、また次の季節へ。

あれからぼくたちは

わりと長く、旅行してきた。ああ楽しかった。夏が始まった。



ブリュッセルに降り立ってプラハから発つことだけを決めてヨーロッパに飛んだ。ブリュッセルブリュージュ(ベルギー)とケルンとハイデルベルクとヒルシュホルンとローテンブルクとヴュルツブルクミュンヘン(ドイツ)とプラハチェコ)に行った。こう見ると結構いろいろ行ったな。結構いいコースだった気がする。詳しい旅程はまた改めて。明日どこへいこうか、何をしようか、どう過ごそうか、本当に全部何も決まっていなかったので、その日暮らしって感じだった。宙ぶらりんな状態が毎日続くの結構楽しかった。

付き合ってくれた彼女とは、2010年の夏をサンフランシスコで過ごしたのだった。遠くまで来たねえ、もう大人だねえ、としみじみと感じ入った。お互いずいぶん金遣いが荒くなったと笑った。お金があって理由なくポジティブな大人の毎日はめちゃくちゃに楽しい。意味なく宝石みたいなチョコレートを買ったりアンティークのレースにうっとりしたり勢いでお城に泊まることを決めたり朝から白ソーセージとビールを食したり同じようで違うたくさんの教会の荘厳さに何度も新鮮に感動したりしてコップに水を満たしていく。

プラハで泊まったいいホテルでは、部屋にBluetoothのスピーカーがあったのでありがたく活用した。Sexy Zoneの「Love Confusion」を白くキラキラ輝くシーツの海に寝そべって聞くの気持ちよかった。「いい曲じゃん」とほめてもらえてうれしかった(本当にいい曲!大好き)。ランダムに流れてくるいろいろを聞き流していたら、あの頃の未来に僕らは立っているのかなあ、と耳に入ってきてぐっときた。あの頃の未来だなあ、いま、この瞬間、紛うことなく。

すべてが思うほどうまくはいかないみたいだけど、でもぶっちゃけだいたい結構それなりにうまくいってる。と思う。大丈夫。人生どうにかなる気がやっと、やっとしてきた。大人は楽しいって、どうしてもっと早くみんな教えてくれなかったのだろう? 高校生や大学生の頃は辛かった。将来に夢や希望なんてなくたって全然生きていけるってあの頃のわたしに伝えてあげたい。

まだ夏休みは続く。何もすることがない日の暇さに押しつぶれて死にそう、という贅沢な悩み。せっかく真っ白な日々なのだからエンタメに生きて死ななければ。

浸水は午前3時

自分でもさすがにどうかしていると思うくらい、ドラスティックに生活を変えている。大きな意味でも小さな意味でも変えている。この2週間くらいで人格が入れ替わったんじゃないかってくらいギアを入れて、どこまで意識的なのか自分でももうよく分からない。アクセルを踏んだのもギアを回したのも自分なんだけど、そのあと手を離してしまったのであとは自動運転におまかせ。わたしは後部座席で眠る。問題、起きたらどこにたどりついているでしょう?

学生の頃と違って数年ごとの卒業も入学もないのでこのままさくさくと落ち葉を踏むように毎日を過ごしていってしまう気がして怖い、というのはまぁ常々思っていることなんだけど、何かが耐えられなくなってせき止めていたダムの水門を開けた。すごい音がした。飛沫が光ってまぶしくて目をつむった。世界は水に沈んだ。

幸せで死にそうな瞬間と、苛立ちや憎悪で燃え尽きそうな瞬間が交互に来て感情が忙しい。いや、そういう人生を選んでいるので当然なのですが。感情ジャンキー。常に揺れ動いてないと、ホルモンが出まくっていないと気が済まないのだろうか。それはそれで、本当に、どうなのか。正気を保つためには四六時中気を狂わせていなくてはいけない、それも極めて理性的に。そういう努力。

知らない街で暮らしはじめて、人間の肉体は細胞の集まりなのだなあとぼんやり思っている。食べたり飲んだりしたものが全部生命力になるように、吸った空気も外灯の光も何気ない会話も帰り道のコンビニの気の抜けたチャイムの音も何かになっていく気がする。細胞がぐるりとまっさらになるまで、新しい物体になるまで、あとどれだけかしら。