インターネットすやすや

嘘ときどき現実、見方により法螺話となるでしょう

手首にフェイクファー

いやはや、気づいたら12月も半ばである。なんてことだ。

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前回この日記を書いたのはコインランドリーに行った日か。そこから2ヶ月弱、いろんな意味でめちゃくちゃラディカルに人生が動いて楽しかった。なんでこんなことになったんだろう? 自分でもそう思う。でもこうなるように決まっていた気もする。あとから考えたら何もかもいいタイミングで収まったとも言えなくもない。

わたしは自分の人生に根拠のない自信が常にあるので、起きたことはすべて正しくて、その場その場で考えていけば結構なんとかなって、流されながら泣きつきながら身を任せていればなんとなくうまくいくと信じている。毎日生きてるだけでプラスの何かが積もっていく。チャリンチャリン。

つい先日、大好きな人たちの結婚式に行ったとき、神父様が「神が定めし運命に従い、この者を永遠に愛することを誓いますか?」みたいなことを言うもんだから、いやいや誓えねーよ!と心の中でマジレスしてしまった。いやわかってます、慣用句だってことは、わかってるのよ。

別に婚姻に限らず、出会ったのは運命かもしれないけど、関係を育んでいくのは不断の努力だ。優しさも思いやりも、性格でも相性でもなくて本当は1秒ごとの努力の積み重ねだ。神様じゃなくて人間の領域だ。一方的に永遠なんて誓えるわけがない。だって片方の意思じゃなくて相互のセッションで決まるものだもんね。なぜなら私たちは下界の生き物だから。

下界は楽しい。運命は案外すぐに変わる。

この先、乾燥地帯

Twitterを丸一日やめてみた。特に何か嫌なことがあったわけじゃなくて、なんとなく、あ、いっかいやめよ、と思ったのであった。

正確に言うと、何か嫌なことが(具体的に)あったわけじゃない、であって、具体的ではないいろいろはあった。玄関の土間がいつのまにか煤けてしまってたみたいな。自転車の鍵が気付いたら錆びてたみたいな。世の中そんなものじゃないですか?積もり積もった塵のようなもので、説明できないけど理由はある。

まぁチラチラ見てはいるけど(見てるじゃん!)書かないことにした。もっとイライラするかと思ったら案外そんなことなかった。参加者意識がなくなった途端、眺めててもあんまりイライラしなくなった(これはよかった)。逆に楽しいツイートで目が爛々ともしない…ってこれはそもそも見る頻度が激減したからかもですね。

 

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雨続きかつ住んでいるビルが今工事中で外に洗濯物が干せないという二重苦で死にそうだったので、耐えかねて近所のコインランドリーに行った。長い旅行中みたいだ。なんだろうねコインランドリーって。どこの国でも同じ場末感がある。

大きな紙袋で運搬してきた洗濯物をステンレスの槽にポイポイ放り込んで、洗って回してすすいで乾かすあいだ、Kindleで漫画や小説を読んで、誰もいないコインランドリーで世界の終わりみたいな1時間を過ごした。小銭がなかったから1000円札で外の自販機でウェルチのぶどうジュースを買った。この飲み物好き。贅沢をしている感じがする。

ふわふわになったあったかいバスタオルをチカチカする蛍光灯の下で抱きしめたらなんだか気分がよくなった。乾燥機は偉大だ。乾燥機はえらい。

Twitter、今週末、絶対使っちゃうな。使いたい理由があるからな。まぁそれまでは冬眠。

毒と定置網

またずいぶん時間が経ってしまった。書きたいことは山ほどある気もあんまりない気もする。

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最近、悪意に引きずられて意地悪くなることが立て続けにあって、ダメだダメだ、と頭を振り払った。

インターネットの海にはそこここに定置網があって、そこを通ると絶対に毒が塗られた縄に足を絡め取られることがわかっているのに、スリルを求めてつい泳ぎに行ってしまう。台風の夜に海を見に行く人現象。傷だらけの足を舐める快楽。平和だから。

幸か不幸か、わたしは悪意に異常に強いので、相当強く縄が皮膚に食い込んでも焦らない。もがくとますます傷つくことがわかってるので、あ〜〜こういう感じだったわ〜〜と痛みを味わって、波でうまいこと縄が離れたタイミングでふわっと抜ける。

しかし今回はちょっと負けそうになって危うかった。ちょっと長時間いすぎた。周りの人に早く帰ってこいと言われたので抜け出せた。持つべきものは趣味の悪い趣味を許容してくれる程度に趣味のいい友達だ。

しかし冷静に考えて、悪意になんて負けていられないし、そんなちょっとした悪意よりももっとイカしたものがこの世にはあふれている。私は定置網の代わりに沖に出て餌をまく。遠いどこかで新しい生き物がなんとか育てばいいなって思う。食べるなら自分が育てたものをおいしく食べたいなって思う。

永遠の退屈

自分の思想の根幹にあってずっと頭から離れなくて否応なく惹かれてしまうもの、「退屈」な気がしてきた。

人生は根本的に退屈だけど、だからと言ってごちゃごちゃ言ってても仕方ないだろ、なんとか騙し騙しやっていこうぜ、っていうのがずっとある。

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フィクションの世界でもそういうものが好きだな、振り返れば。宮崎駿の「この世は生きるに値する」は本当に本当に好きな言葉だし何度も励まされているけど、それと「この世は退屈」はわたしの中では両立する。

 

「ラ・ラ・ランド」は退屈な日常から出発する映画で、夢が叶ったところで世界は変わらないのがすごくよかった。また新しい退屈がはじまる。それは永遠に続く。違う一瞬の煌めきで生き延びていくしかない。

今ならば

ずっと書きたかったものが書けるかもしれない。

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という気持ちがむくむくと生まれてきた。

ずっと頭のどこかにあった。どこかでいつか言葉にしなくちゃいけなかったんだけど、多分今だと思う。

 

何年か前の、もっというと学生時代のブログを読むとおもしろい。今の自分ならそんな書き方しないなという表現もあるし、荒削りだけどエネルギーがある。昔は良かったとかじゃなくて、変化の話だ。

 

週の真ん中にぽっかり休日があるとなんだか手持ち無沙汰でいい。あんまりテレビも見ずに(自分としては珍しい)せせこましいことを黙々としていた。

朝からホットケーキを焼いて、りんごを炊いて、お風呂の掃除をして、スーパーで買い物をして、白菜をたくさん使って鍋を作った。

この家から行けるスーパーはいくつかあるけど、自転車で坂をくだった先にあるお店がいちばん好き。行くと料理したくなる。野菜や果物やお肉やお刺身の並び方が自分の気分とあっている。

白菜の1/4が128円でうれしい。高いタイミングだと300円くらいするのでそれだけで幸せになった。

これから映画を見に行く。いい休日だな〜〜。

 

毎日小さい決意を重ねていくのだ。今日も明日も書かなくては。

人生最高の夏

人生最高の夏が終わって秋が始まってずいぶん経ってしまった。本当はもっと早く、というか頻度高く書こうと思っていたのに。

秋の入口のある日、待ち合わせの時間より少し前に着いてしまったので青山ブックセンターでふわふわと時間を潰していた。仲のいい人と表参道で待ち合わせするのか結構好きだ。定番のランドマークがあんまりないから、その日の気分で落ち合う場所が変わる。海外文学の平棚に積まれた本を1つずつ眺めていて、クレスト・ブックスの何かを読みたくなった。幾人の人の手で練り上げられた文章に触れたい。

ジュンパ・ラヒリは「停電の夜に」で出会ったときから特別な作家だった。もちろん訳がきれいなのもあるけど、彼女が迷い込んでいる螺旋を、見たい景色を、私はなんだかとても近しくあたたかく感じる。

ローマを選ぶ。子どもの頃からわたしを魅了し、すぐに虜にしてしまった町だ。2003年に初めて訪れたときに心を奪われ、相性がいいと感じた。前から知っている街のような気がした。2,3日過ごしただけで、自分がここに住む運命なのだとわかった。

自分を表現する別の言い回しを見つけると、エクスタシーのようなものを感じる。知らない言葉は目もくらむような実りの多い深淵を象徴している。その深淵にはわたしが見逃しているすべてのもの、すべての可能性が含まれている。

ラヒリは、両親が家の中で話す「母なる言葉」ベンガル語と、合州国で育ち学び思考の核にした「継母の言葉」英語に続いて、3つめの世界としてイタリア語を選ぶ。自分の手で。ローマに移住し、イタリア語だけを読み、イタリア語で物語を紡いで自らを語り始める。

亡命、という言い方をしている。どこまでいっても何でもない、からこの人の世界は優しいなと思う。決めつけない。ゴールがない。

わたしは日本語しか術を持たないし、むしろ外国語に対していろいろなレイヤーで恐怖があるんだけど、それは自分の意志に関わらずバイリンガルにならざるを得なかったラヒリの言っていること、していることと根っこは同じで、発露が逆かもしれないという気がした。若くして高名な作家になった彼女が、ここへきてこんなにももがいて苦しんで格闘しているんだから、わたしも苦しんでみたら新しい地平が見えるのかもしれない。湖を渡れるのかもしれない。

長過ぎる夏休みが終わって秋が来て働き始めた。今のところはだいたい楽しい。新しいことばかりが起こるのはそれなりに面白い。

何より、新しい扉は自分で選んだのだ。開いた先を歩いていくのはやりがいがある。転換点なんてもはや自分で作らないと生まれないから。

べつの言葉で (新潮クレスト・ブックス)

べつの言葉で (新潮クレスト・ブックス)

あんたがたどこさ

5日間九州を旅行していた。

福岡空港に降り立って、熊本に入って、杖立温泉でのんびりして、阿蘇を走って、熊本市内をぶらぶらして、九州新幹線で博多にワープして友達と合流して、佐賀・唐津に繰り出してさんざん遊びまくって、また博多で死ぬほど遊んだ。初めての場所ばかりで楽しかった。

九州の温泉行きたいなあ、と思ってとりあえず予定をあけて宿を取った。唐津でこの夏やってたおそ松さんのイベントにかこつけて、佐賀出身の友人に、一緒に佐賀いこうよ~帰省についてくよ~と噛み付いた(やさしい彼女は一緒に来てくれたけど結局実家には戻らなかった)(そんなに簡単に移動できなかった)(申し訳なさすぎる!)。

菊池風磨くんに影響されて、今回の旅行のテーマの1つは「自問自答」にしようという気持ちでいた……のは事実だけど、いざ書くとこの単語、恥ずかしすぎるな。特に何か大きな目的があるわけでも、見たいものがあるわけでもなく、とにかく知らない場所に行ってみたかったのだった。

杖立温泉は、いい意味で何もすることがなくて本当にいいところだった。1人で旅行していると考える時間がたくさんある。自問自答した結果、まぁいろいろあったけどだいたい人生うまくいってていい感じじゃない?って結論になった。自分のこの無駄なポジティブさっていうか、後先考えない楽天的な思考の源泉て、よかった!神様に愛されてる!って次元の自己肯定感なんだな~って、川にかかった煤けた橋の上からキラキラと輝く水と光をぼんやり眺めて思った。誰かに何か言われたとか何かが成功したとかじゃなくて、なんかもっと、ずっと頭上にある。

多分本来これは宗教の領域なのだろう。わたしの神様には名前がない。神様がいるのはいいんだけど、でもそういう大雑把で根拠の無い確信が人を傷つけることはままあるし、そういうことをもっと本当は考えなくてはならないのだ。と思う。


長い夏が終わる。さみしいなー。幸福な夏休みだった。
生きている限り新しい夏はやってきますからね。楽しかった時間をよく日に干して瓶につめて窓辺に並べて、また次の季節へ。